【パズドラ】新学期ガチャ
控え目に、控え目に…
新学期ガチャ
パズドラの新学期イベントが来ている。ダンジョンは特筆すべきことはないのでガチャキャラについて講評のようなものを。
はじめに
僕はどんな弱いキャラにも使い道を見出すようあらゆる状況を考えていくスタイルなので、「弱い。いらない。」と切り捨てるようなことは基本しない。
僕が「使えない。」と言ったらそのキャラは全て売り払っても今後絶対に後悔しないと思う。
新規追加キャラ
学園ヘスティア
本家との違いは色とスキル。
役割としては、まずは本家同様HP過剰系リーダーの回復4つ消し要員兼追い打ち要員。
この時点でもう十分優秀。
あまりおすすめはしないが、バインド耐性持ちなのでバインド解除スキルをつけたりメタトロン装備で列回復覚醒を付けたりしてバインド対策枠にするのもありではある。
おすすめしない理由は後述。
本家との違いを考えると、スキルが本家の進化前と同じ。
覚醒の貧弱な進化前は直入れは出来ず継承前提なので、浅い階層で属性吸収無効が使いたい場合はこちらの方がいい。
ただしスキルターンは重くなっているので継承には注意。継承しないにしても純粋な陣としては正直本家の方が強い。
現状属性吸収が勝敗を分ける場面というのはほとんどない(橋姫ぐらい)が、今回ウルカと合わせて2体追加されたことを考えると今後増えてくる…かもしれない。
色は主属性が木なので、本家とは入りやすいパーティが違う。
一番分かりやすいところではルシャナパやクシナダパ。
バインド解除枠としての継承がおすすめ出来ないのは、素のスキルとの兼ね合い。
スキルターン15と重くそれなりに強いスキルなので、潰してしまうのはもったいない。
バインド解除スキルをつけると(例えば覚醒アマテラス)23ターンかけて溜めたスキルが4ターンのバインド回復ってことになる。少し効果が物足りない上に必要なときに溜まっていなかったりする。
メタトロン装備を継承すると、バインド解除がスキルでなく盤面で行えるのでヘスティアの素のスキルを使うことはできるが、15ターンかけて溜めたスキルを使えるタイミングが11ターンしかなくなる。これも惜しい。
ついでに言うと昨今の即死ダメージがばんばん飛んでくる環境を考えると、バインドは即時回復出来なければ心許ない。
LFがバインド耐性持ちで、バインドで色欠けすることがないパーティであれば列回復でもいいが、そうでもなければバインドは即時回復に限る。
学園ルミエル
イラスト目的以外で狙う理由は皆無。
2wayは時代に合っていないし3つでは何にもならない。
チームHP強化2つは優秀だが封印耐性も指も何もないので、HP盛るためだけに入れるには失うものが大きすぎる。
HP盛ることを考えられる人のボックスに他にいいキャラがいないことは考えにくいので、残念ながら本当に使い道がない。
本家と同じ様に固定+陣として継承要員とするしかない。
せめてスキルが本家と違えば何かしら言うことはあったかもしれないが…
学園イシュタル
スキルが悪くない。防御0にしつつの3色陣なので、裏闘技橋姫やメタトロンに打つと有効。エドパはもちろん幽助の指定色も含んでいるので噛み合う。
防御0だけにスキル枠を割かなくていい(陣枠と兼ねられる)のでありがたい。
覚醒の見所はHP50%以下強化2つだが、この覚醒どうやらブレスにはかからんらしい(今試した)。残念。
グリムジョーで1000倍ブレスが撃てると思ったんだけど…
学園ロキ
スキルが本家フレイヤと同じでそれなりに優秀なので、フレイヤを持っていなければ継承すれば使える。
神マシンキラーはよりスキルターンの短いフラスコの中の小人が持っているので、周回を考えてもロキ必須という場面はまずない。スキブ1の差はあるがまずない。
学園ウルカ
まぁ最レアだしね。強い。
でも季節最レアの割には控えめ。
76リーダーはディアブロスとの差別化が命だが見事に失敗している。
指定5色の欠損のリスクを負って攻撃倍率8.5→9.0では流石に割りに合わない。
覚醒もバランスよく揃っているだけで、尖ったものはなく見るべきところがない。
いずれ来るであろう超覚醒で7コンボ強化つけてもうーん。
スキルも吸収無効が剥奪されて見る影もない。
多色で副属性の右側の色の吸収に当たった時に面倒臭くないのはありがたいが。
バランスタイプを見るとすぐ「キラーなんでも付けられるから強い!」とか言う人もいるが、そういうのは無効貫通持ち、キラー複数持ち、7コンボ強化3つ持ちのどれかに該当する時に言うべきこと。
強いのは事実だけどレア度の割には残念な性能と言わざるを得ない。
既存キャラ
学園サクヤ
4月のクエストで配布されるので所有率はどのキャラよりも高くなりそう。
残念ながらリーダーとしてはいまいち。
多色のサブにサポート枠として入れるのが一番活かせる道だと思う。
色埋めに比較的都合のいい色だし、ドラゴン持ってるからリクウにも入る。
超覚醒はバインド≧ガムテープ>7コンボ強化。
あくまでサポート枠。火力覚醒2つ(それも2way)しか持ってないキャラに火力を期待するのはお門違い。
三針を筆頭に重要な場面が増えてきた耐性覚醒3種は悪くない。モンハン武器やモーグリ、ドロイドラゴンを入れて100%にする時1役買う。
その他
疲れたので他のキャラについてはさらっと。
以前からいたキャラは軒並みインフレに飲まれてこれといった仕事は出来ないと言っていい。
全部継承要員。
オロチは闇の2wayなので幽白コラボの飛影や転生オオクニとは相性がいいがそもそも飛影は弱いしオオクニとはそこまで合ってない。
今後闇のコンボリーダー(同色2コンボ要求しないLS)の登場に期待といったところ。
まぁ仮に強い闇コンボリーダーが出てもコンボ強化詰めでいいんだけど…
2wayの冬は長そうだ。
交換
交換する価値のあるモンスターはいない。
有り余っているならお好きにどうぞ。
総評
全体的に貧弱。
あまり気合い入れて引くガチャじゃない。
コラボと違って唯一無二のスキルもないし面白みにも欠けるなぁ。
本気でどうでもいい報告
こっちのブログでパズドラのことを書くことを解禁しようと思う。
あぁ…とうとう手を出してしまうのか…
いや解禁も何も誰も禁じてないやんと思われるだろう。
その通り。誰も禁じていない。個人的に縛っていただけなのだ。それを解禁する。
これには僕以外何人たりとも理解し得ないだろう葛藤があったのだが、残念ながらこれを伝えられる言葉の使い方を僕は知らない。
解禁すると言ってもちょっと抑えながら書こうと思う。本気で書くと平気で1記事1万字越えるから(実際1回越えた)。
いやぁほんと果てしなくどうでもいいなぁ。
コスパの話その3:コスパとパフォーマンスの使い分け
コスパの話をしている。前に2つ書いたのでそちらから先に読んでほしい。
1つ目の記事で人生は一度きりだから、生き方に関してはコスパを考えるべきでないといった。
ただどうも抽象的すぎたと思う。具体的な話は別で書こうと思っていたので意図的にそうしたのだが、意味わからんかったって人はこの記事も読んでほしい。ここで幾分具体的な話をするつもりだ。ただしあくまでも”幾分”だ。自分のことながら結局かなり抽象的な物言いになる未来が見える…
僕自身の話
自己紹介もせずにブログを始めたので、たぶん初めて僕自身の話をする。
僕は今大学生だが、再受験をして薬学部にいる。
以前は同じ大学の理学部にいたが2年次で退学して再入学した。
「薬学部にいます。」と言えば、「じゃ将来は薬剤師?あるいは製薬会社で働いたりするのかな?まぁ免許とれば食いっぱぐれることはないからいいね。」と言われる。
まぁそうなるよな。6年制の薬学部で免許取って出るのだから普通は薬剤師になる。それがセオリーだ。王道だ。
王道ということは…(コスパの話その2:王道とコスパ - もがろぐ)…コスパの良い道だ。
実際コスパを考えれば薬剤師になるべきだろう。
わざわざ勉強して(国立なので名前を書けば受かるようなところではない)理学部よりも偏差値の高い学部に入り学部なのに6年もかけて出るのだ。ここを出ないと得られないものを使わないともったいない。
しかしやりたいことが別にある。ついでに薬剤師に興味がない。(この学部で学べることは知りたいことばかりで楽しいし薬学部に来て良かったと思っているが、受験の時点で薬剤師に興味はなかったので再入学して幻滅したとかではない。)
僕のやりたいことは理学部を出ていても十分出来ることだ。むしろ理学部卒の方が幾分多いだろう。
こう考えると僕はとてもコスパの悪い道を選び回り道をしている。実際とてもコスパは悪い。
薬学部に来た時点で薬剤師になるのは容易い。勉強は楽ではないがどの道やらなければならないしやりたい勉強なのでいい。
しかし僕のやりたいことをするためにはこの学部の勉強とは別に努力しなければならない。とても労力がかかる。
では僕のこの選択は悪手か。
違うと思う。
来世があるのであればこの学部(Bコース)に来ないとできない薬剤師(特上カルビ)という道を選んだ方がいいだろう。
来世はこの学部に来るために払った労力(4000円)を僕のやりたいこと(牛タン)に向ければ(Aコースは3000円なので)その達成は容易い(1000円安く上がる)。
だが重ね重ね言うが人生は一度きりで、一度きりの場合コスパを考えることは無意味になる。
薬学部(Bコース)に来た以上薬剤師(特上カルビ)になるのが王道(コスパの良い道)だが、一度きりであるならばコスパは度外視してたとえわざわざ薬学部(Bコース)に来ずとも理学部(Aコース)からでも出来た(注文できる)ことであろうとやりたいこと(牛タン)をやるべきなのだ。
あるいは僕の子供のころからの夢が薬剤師であれば薬剤師になるのがいいだろう。これがコスパも高くパフォーマンスも高い文句なしの最善手だ。しかし現実にはそうではない。
コスパが高いケースとパフォーマンスが高いケース
コスパというのは分母にコスト、分子にパフォーマンスがあるわけなのでパフォーマンスが上がればコスパも上がる傾向にあるが、そうでない場合もある。
僕の場合は「この学部に来てしまった=この学部に来るための労力を既に払った」という事実がコスパの高い道とパフォーマンスの高い道を違わせる条件になった。
他の条件も考えられる。
例えばある少年に野球の才能があり、野球の世界で生きていけばいずれ世界を獲れる選手になり得ると考えられたとする。そんなわかりやすく才能が露発するのかは知らないがそうだとする。
その少年が野球大好きで野球選手になりたいのであれば野球の世界に飛び込むべきだろう。
しかし彼には学校の先生になりたいという夢があったとするとどの道を選ぶべきか。
周りからすれば野球選手になってほしいだろうが、野球の才能があるからその道で生きるのが幸せなのかはわからない。
野球は好きでも嫌いでもないけど才能があるからやったら成功したというのと、凡庸ではあるがなりたかった学校の先生になったというのでどちらが幸せか。
野球選手として大成という条件設定が破格すぎて野球選手になった方が幸せでしょと思ってしまうかもしれないが、基本的にはなりたい職業につくのが、将来の夢を成就するのが一番幸せなはずだ。
何をしたいかでなく何が向いているかで生きるのはコスパはいいがパフォーマンスは恐らく低い。
コスパとパフォーマンスがともに最大値をとる場合も多いが、そうでないときが悩み時なのだ。
上ではコスパの高い道とパフォーマンスの高い道が異なる条件として2つ挙げた。
- 既にある程度レールに乗り王道と称することのできるコスパの高い道が示されている場合
- やりたいことと向いていることが異なる方向を向いている場合
他にも
世間一般の嗜好と自分の嗜好にずれがある場合(焼肉屋の例はこれにあたる)
高パフォーマンスの道にしっぺ返しを食らうリスクがある場合
などがある。
こういうコスパの高い道とパフォーマンスが高い道で分岐したとき、その選択が一度きりであるかどうかを考えるといい。
一度きりでなければ基本的にはコスパの高い道を選んだ方が正解だし、一度きりであればパフォーマンスのみを求めた道を選ぶことを考える方がよい。
僕は来世を信じていないので牛タンを食べるつもりだ。
コスパの話その2:王道とコスパ
コスパの話全3編
王道とは
「王道」という言葉には2つの意味がある。
- 仁徳に基づく政治。儒家の理想とする政治思想で,孟子によって大成された。対義語に武力を以って国を統治する「覇道」。
- Royal Roadの訳語「王の道」。「一番近い距離を進む直線の道」を表す言葉。転じて「安易な道」「楽な道」を意味する。
正攻法、セオリーやありがちなベタな展開といった意味で使っている人が多いと思うが、実はそれらの使い方は誤用なのだ。
とは言っても、日本語の意味は移ろいゆくものだしいずれ正しい意味として認められるであろう使い方を誤用だ御用だとあげつらう気はない。
今回の本題はそこではない。
ここでは仮に王道という言葉を正攻法という意味で使うとしよう。
「平均的なレベルの大学を受験するなら、数学は青チャートが王道だ」といった具合だ。
言いたいこと
結論から言うと「王道」と「コスパの良い道」が=で結ばれると思う。
この記事で言いたいのはこの一文だけだ。
王道というのは多くの人が選ぶ道だ。なぜ多くの人が選ぶのか。それが通りやすく早く目的地に着くからだ。これはそのままコスパが良いと言い換えていいのではなかろうか。
正攻法が正攻法たり得るのはその方法が素晴らしい方法だからではない。その方法で成功した人が幾人もいるからだ。
「理系で浪人するなら駿台予備校がいい。それが王道だ。」というのはその方法で成功した多くの例があるからだ。
同程度の勉強量を費やすにしても駿台なら河合より点数を上げられるという旨の証言(体験談)があるからだ。同じだけの勉強量(コスト)で点数(パフォーマンス)が高い方法ということはコスパの高い方法と言い換えられるだろう。
王の道
ここからは本題であるコスパの話とはあまり関係ないが、今ちょっと考えたことについて書いてみる。
僕は王道というのは多くの人が通り踏みしめた結果土が固まってできた道ではないかと考えた。
辞書を引いて出てくる2つ目の意味Royal Roadの訳語「王の道」とある意味似ていてその実かなり違う。
「王の道(Royal Road)」とは、紀元前6世紀頃から紀元前4世紀頃まで存在していたアケメネス朝ペルシアに建設された、古代の公道のことである。
当時からすればとても利便性の高い大公道であり、迅速な交通と通信を実現したという。
王の道の語源は調べてもわからなかったが、十中八九単純に王様が作った道だから、すごい道だからといった理由で違いないと思う。
しかし僕は王道(王の道のことではなく言葉としての王道のこと)は王道として生まれたのでなく多くの人が通った道、使った方法だから王道と呼ばれるに至るのだと考える。
なんだかこの因果の逆転が言葉の意味の変容とリンクしているような感覚を覚える。
まぁ違うものについて言っているので逆転も何もないのだが。
とりとめのない考えをぶちまけただけで歯切れが悪いが本題ではないのでここで終わってもよしとしよう。
コスパの話その1:焼肉食べ放題で考えるコスパ
コスパの話全3編
以前から考えていることがある。コスパについてだ。
コスパとは
コスパとは、コストパフォーマンスの略語であり費用対効果のことである。パフォーマンスをコストで除したものと捉えてもいい。
【コスパ】
コストパフォーマンス(cost performance)の略語。費用対効果。支払った費用(コスト)と、それにより得られた能力(パフォーマンス)を比較したもので、低い費用で高い効果が得られれば「コスパが高い」と表現される。「費用」は金銭だけでなく時間・労力・精神的負担なども含まれ、「パフォーマンス」は、作業なら結果、工業製品なら性能、食べ物なら味、ファッションなら材質・デザイン性、人間関係なら他人から得られるものなど、様々なことに使われる。知恵蔵mini(朝日新聞出版)
コストとは金銭だけに限らないし、パフォーマンスは量だけでなく質も大事だし得られた利益と捉えられるものを包括的に指す。
そしてこのコスパという概念は僕らが何かを"選択"するときに顔を出す。
少ない出資で美味しいものを食べられれば嬉しいし、100円上乗せするだけでより良いサービスを受けられるのであれば安いものだと考える。
これは万人が持ち合わせているもので、ショッピングをしているときも食事をしているときも遊園地にいるときも常に頭に浮かぶ。僕らは常にコスパを考えている。支配されているといってもいい。
当然「コスパが高い」のは良いことと考えられ、僕らはコスパの高い方を選択する。
しかしそれは常に言えることだろうか。いや違う。
1度きりであるかどうか
何かしらの選択をするときコスパが高い方を選ぶのは道理だが、これには例外がある。
一度きりの選択である場合だ。
焼肉の食べ放題を例に挙げよう。
あなたは数人の友達と焼き肉屋に来た。
この店には2つの食べ放題コースがあり、
Aコースは3000円で一般的なメニュー(カルビ、ホルモン、牛タン、セセリなど)の食べ放題だ。
Bコースは4000円で、Aコースのメニューとほとんど同じだが、Aコースにはない特上カルビが追加されている。
この特上カルビがあるかないかがA、Bコースの唯一のメニューの違いだ。
今回は多数決でBコースを選ぶことになった。
Aコースにはない特上カルビを注文することができる。
しかしあなたの一番好きな肉は牛タンだとする。
さてあなたは何の肉を(優先的に)食べるべきだろうか。
カルビが嫌いで嫌いで親の仇より憎いといった特殊な事情がない限り特上カルビを選ぶ人が多いだろうと思う。僕もそうする。
これはコスパを考えた結果だ。特上とついているからには美味しいのだろうし、1000円多く払って得た特上カルビを注文する権利を使わないのはもったいない。
その結果一番好きな肉である牛タンは後回しになるが、それは大した問題ではない。焼肉屋にはまた来ればいいからだ。
そう、また来ればいいのだ。また次に来た時、今度はAコースを選びお安く牛タンをたらふく食べればいい。
ではこの焼肉食べ放題が一度きりであったとしたらどうか。
あなたが焼肉を食べられるのは人生でこの一回きりだとする。後にも先にもこれっきりというとなぜ牛タンが美味しいことを知っているんだとなってしまうので、これまでは焼肉を食べられていたがこれが人生最後の焼肉だとする。
あなたは今回の焼肉食べ放題を終えた時点で次に焼肉屋の敷居を跨ぐと死ぬ病にかかる。
あるいは明日には地球が滅亡することが分かっていて最後の晩餐に焼肉を選んだ。
コースはBコースに決まった。
地球滅亡前日と設定してしまうとお金の価値が無に帰してしまうし焼肉屋がのれんを上げているとは思えないがそういったことは考えないでいただきたい。何にせよあなたにとってこれが最後の焼肉だとすると、何の肉を食べるだろうか。
やはりコスパの良い特上カルビを選んで食べるだろうか。ドンペリで溺死したいタイプか。
多くの人が今度は牛タンを選ぶと思う。僕もそうする。
コスパとか知ったこっちゃない。一度きりなら自分の好きなものを選ぶ。
おわかりいただけるだろうか。
一度きりであるか否かによって取るべき行動が変わったのだ。同じ焼肉屋の同じコースであるのにだ。
一度きりの場合コスパを考える意味がなくなるのだ。
考えやすいように焼肉を例に考えたが、これはどこまで拡大しても変わらない。一度きりであるか否かで選択の基準は大きく変わり、一度きりの選択にはコスパの良し悪しが介入する隙はない。
受験は一度きり()
さて、拡大してみよう。一度きりのものといえば何があるだろう。
大学受験とかどうだろう。たまに大学に2回入学したりするおかしな人がいるが、普通の人は大学は1か所しかいかないし受験は一度きりだ。
ある人の受験勉強に費やす努力量(勝手に数値化した)と合格できる大学が以下の通りだったとすると、どうするべきだろうか。
努力量 | 合格できる大学 | 偏差値 |
---|---|---|
90 | A大学 | 40 |
100 | B大学 | 60 |
800 | C大学 | 65 |
一番上を選ぶ人はそういないと思う。あと10頑張るだけでさらにいい大学に行けるのだからそれぐらいは頑張るだろう。
努力量800はこの人にとってのこれ以上ない精一杯の努力だとする。
精一杯やるべきだろう。頑張れば成果が返ってくるのだから、妥協する理由はない。
このように受験で考えても、コスパが悪かろうと最大限の努力で実現しうる最高の成果を目指すのがあるべき姿だと考えられる。
それは受験が一度きりだからだ。
一度きりの人生
さらに拡大する。
人生そのものはどうだろう。
本当に残念なことだが人生は一度きりだ。
あるいは一度きりではあっても先年単位で寿命があって生き方をやり直せるほど長ければどんなによかったか。
人生の選択すなわち生き方についてコスパを考えるのは意味がない。
「あまりあくせく努力して勉強して働いて金や立場を得ようとは思わないな。ちょこっと努力してそれなりの生活できればいいじゃん。」と考える人がいるが、これはコスパの良し悪しを一度きりの人生にまであてはめている。
努力をそこそこに抑えて温存したエネルギーをどうしようというのか。来世で使うのか。
そこそこに抑えているのではなく努力ができないのであれば、それはその人にとって最大限可能な限りの努力をしているわけだからまぁいい。
だが「自分のやりたいことなりたいものはあるけど労力が大きすぎて目指すのは疲れる。そこそこで妥協する。」というのはいただけない。
その目標を諦めればなるほどストレスフリーにそこそこの満足を得られるだろう。しかし疲れないようエネルギーを温存してどうするのか。活力に満ち満ちた状態で人生を閉じてどうするのか。人生は疲れていいのだ。全てやり切って疲れ切って終えねばどうする。
コスパを考えることが意味をなすのは一度きりでない場合だけだ。抑えたコストを次に回すことが出来る場合だけだ。
自分自身がどういう人生を歩むかという選択にはコスパを考慮すべきでない。
分母であるコストは度外視して分子であるパフォーマンスを最大にすることだけ考えるべきだ。
妥協した生き方ができるほど人間の生は長くない。
価値観は人それぞれなので僕がとやかく言うことではないが、一度きりの選択では基準を見直した方がいいということに気付かず凝り固まった価値観を抱え続けている人は、一度考え直した方がいいと思う。
統計の勉強をしている
ブログを書け
はてなブログからメールが来ていた。前回のブログ更新から1ヶ月経ったがそろそろ次を書かないかね?とのこと。
普段全く使っていないアドレスに届いていたので、本来なら目にすることなく無数の迷惑メールに埋もれるはずであったメールだが、いくつかの偶然が重なり目に入ったのでせっかくなので従ってみることにした。
特にネタを用意したわけではないので、ただの日記代わりの記事になる。
最近やっていること
タイトルまんまだが、統計学の勉強をしている。
実習前の教養試験を終え勉強から一応解放された今、なぜまた勉強しているのか。それも統計学。
なんでやろな。
自分でもよくわからない。
勉強し始めた当初は何か理由があった気もするが思い出せないということは大した理由でもないのだろう。
とはいえ流石に何の意味もなくただ漫然と勉強するほど阿呆の名を欲してはいない。一応目標と目的はある。
目標は統計検定と専門統計調査士という資格試験。
目的は…就活(?)
民間資格なのだが、統計検定という英検の再従兄弟のような試験を実施している団体がある。2つともそこの資格だ。
就活のためとはいっても、内定獲得に覿面に役立つとは思っていない。
しかし履歴書の白を僅かでも減らせれば無駄ではないだろうし話のネタの候補にぐらいはなるかと思った。
履歴書を埋めるだけなら何の資格でもよかったはずだが、なぜ統計学に至ったのかは忘れた。
統計学って強い
いざ勉強してみると、これがなかなか奥深い。
統計学というのはなんとなくを数字にする学問だ。
例えば何かしらのペーパーテストを受ければ「今回の試験は難しかったな」とか、「平均点が低いわりに自分はいつも通りの点数だし順位上がったかな」などと様々なことを感じ取ることが出来る。
あるいは宝くじは期待するだけ無駄だというのも皆知っている。
誰でもなんとなくでは知っているのだ。そのなんとなくを、期待値や分散を出したり、有意水準を定め検定を行ったりすることで相手を納得させる言葉に昇華させる。
全員の点数を足して人数で割るのだって立派な統計学だ。
「全体的にこっちのグループの方が優秀だよね」とか「いやそんな変わらんくない?」とかふわふわ話をしているところに「p値0.05下回ったから有意差~(略)」と無慈悲に数字をぶつけるのが統計学なのだ。
ふわふわ陣営からすれば反論しようがない。空気読めよぐらいしか言えない。
学問としての統計学
統計学は学とついているし一応学問であるが、文学、法学、工学、理学、経済学などとは少し毛色が違うように思う。
上の5つの学の後に”部”を付けてみるとわかりやすい。文学部、工学部、経済学部は日本中どこでも総合大学を覗いてみればゴロゴロ見つかる。
しかし統計学部というのはあまり聞かない。滋賀大学にデータサイエンス学部という学部があり、それが統計学部に相当するらしいが他にはどうやらなさそうだ。
これは統計学が道具に徹した学問だからではないかと思う。修めて何かを生み出そうという学問ではなく、感覚に惑わされないようデータから特徴を抽出しまとめ、扱うデータごとにその都度解釈がぶれないよう基準と手法を定める。これが統計学の役割だと思う。
実はデータを統計学の知識をもって処理したとて特に驚きの結果が出るわけではない。結論はふわふわ陣営の直感と同じなのだ。
先述の例でも検定の結果有意差があるといえると言っているだけで結局1人目と結論は一緒だ。
しかし圧倒的に強さが違う。同じことを言っているのにその言葉の強さが段違いなのだから、使えれば自分の言葉の説得力が跳ね上がることは容易に想像できよう。
ここまで実学であることに前のめりな学問は他にないように思う。
なぜ統計学を勉強しだしたのか自分でもわからないとか上で言ったけど、間違っていなかったと思う。これは役に立つ。どんな分野に進んでも役に立つ。
うがいって3種類あるよね
冬。寒い。
こんな季節は寒さと同時に避けたいものがある。風邪だ。
風邪予防といえば、手洗いうがい。一にも二にも手洗いうがい。みんな仲良く手洗いうがい。
手洗いはまぁいい。特に疑問とかない。今日はうがいについて書きたいと思う。
うがいの種類
うがいって2種類、もっと分けて3種類あるのはご存知だろうか。いや3つめは僕が勝手に決めただけなので一般的な分類ではないと思うが、少なくとも2種類はある。
いわゆるブクブクうがいとガラガラうがいだ。
擬音だけで言わんとするところは大抵伝わったと思うが、前者は口の中を漱ぐブクブクあるいはクチュクチュと音を立てるうがいである。
もう一方はのどを洗う目的で、幼稚園や保育園で「うがいを出来るようになりましょう」とやり方を教わるのはこっちだ。
モンダミンでガラガラうがいをする人はいないし、風邪予防にはブクブクうがいだけでは心許ない。それぞれ使い時があり深く考えもせずに使い分けている。
ここからが本題なのだが、僕はガラガラうがいはもう一段階細分化できると考えている。正確にはのどを洗ううがいには、だ。
ガラガラうがいとカラカラうがいに分けられると思うのだ。
ガラガラうがいはさっき説明した通りだが、カラカラうがいというのもあると思う。ガラガラうがいよりも軽い乾いた音がするのだ。水のくせに乾いた音というのも不思議だが、我ながら悪くない表現だと感じる。たしかにそう聞こえるのだから仕方ない。
水が音を立て泡を立てるのは一緒なのでそのうがいがどっちなのかは少し難しいが、音以外に何が違うのかといえば、よりのどの奥に水が当たっている感覚があるのがガラガラうがいだ。カラカラうがいはもう少し浅いところまでしか洗えないように感じる。
もしかしたらカラカラうがいはやったことがない人もいるかもしれないし、どうにかするとやったことがない人のほうが多いのかもしれない。いろんな人に聞いてみたい。
しかし僕は数年前までカラカラうがいしかやってこなかった。ガラガラうがいだと思ってカラカラうがいをやっていたのだ。
幼稚園の先生はガラガラうがいを教えてくれたであろうに、僕は間違って習得してしまったようだ。
うがいの原理
そもそもうがいってどういう原理か考えたことがあるだろうか。
うがいの本質は水の移動だ。じゃあどうやって水は動いているのか。
ブクブクうがいは簡単だ。歯を合わせた状態で固定し、頬を膨らませたり引っ込めたりすることで、口の中の空白の領域を歯の前と後に作りだし、その空間を水が移動する。必然的に歯の隙間を通して前後を水が移動することになるので、モンダミンには有効なうがいだ。
ガラガラうがいとカラカラうがいはのどを洗うのが目的なので、口に水を含んで上を見上げる。こうすることでのど元に水を配置することが叶う。
問題はここからだ。その水をどうやって動かしているのか。
ガラガラうがいは、首を触ってみると喉仏を中心に首に振動がある。というか声が出ている。
喉仏は声帯のすぐ隣にある冠状軟骨のでっぱりなので、声帯の振動が外から一番見て取りやすい部分である。
このことから、ガラガラうがいは声を出して声帯を振動させることで、水を動かしていると考えられる。
対してカラカラうがいは声が出ていない。喉仏を触っても振動は一切ない。声も出ていない。しかし水は音を立て泡を起こしている。
声以外に何かあるとすればまぁ息だろう。カラカラうがいは息で水を動かしている。
実際水のない状態でカラカラうがいを再現しようとすると、ハーッと息が出る。手袋を忘れて外出してしまった寒い冬に手に温かい息を吹きかけるのあの時と同じ息だ。
これが僕がこの記事を書くにあたってうがいというものを徹底的に検証してみた結果である。
一日中引きこもって一度も外出していないのに、延々とのどを洗い続ける成人男性の姿がそこにはあった。
カラカラうがいの使い方
そういえば俺のうがいって声出ないなって気づいたのが数年前で、その1年後に2種類のうがいに気づいた。
それ以来ガラガラうがいをやったりたまにカラカラうがいをやったりしている。
無駄なハイブリット感に浸れるが、それ以外でカラカラうがいの意義を考えてみよう。
ブクブクうがいは口腔内洗浄。モンダミン。
ガラガラうがいはウイルス除去。風邪予防。
カラカラうがいは
特にない。
なんか申し訳ないけど特にない。
ブクブクうがいとは比べるべくもないし、呼気で水をかき回すよりのどの振動で水を震わせたほうが幾分のどへの水の接触は増えるので、ガラガラうがいのほうがウイルス除去には向いている。
強いて言えばガラガラうがいよりほんの少しだけ楽で簡単に出来るが、水を含んで上を向く手間は変わらないし、そこから先少し楽になったところで誰も喜ばないだろう。
ただ幼稚園の先生はこのうがいの違いを知っておけば、「それはカラカラうがいだよ。声を出すようにするのが正しいうがいだよ。」と子供の間違いを正すことができ、僕のような哀れな大人を生まないようにすることはできるかもしれない。
カラカラうがいをやったことがない人は、一度やってみてほしい。水を含んで上を向いた状態で、手を温める要領で息を吐くだけだ。
出来たところで何の得もしないが損にもならないはずだ。
以上、カラカラうがいの存在を紹介するだけの記事。