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コスパの話その1:焼肉食べ放題で考えるコスパ

コスパの話全3編


以前から考えていることがある。コスパについてだ。

コスパとは

コスパとは、コストパフォーマンスの略語であり費用対効果のことである。パフォーマンスをコストで除したものと捉えてもいい。

コスパ
コストパフォーマンス(cost performance)の略語。費用対効果。支払った費用(コスト)と、それにより得られた能力(パフォーマンス)を比較したもので、低い費用で高い効果が得られれば「コスパが高い」と表現される。「費用」は金銭だけでなく時間・労力・精神的負担なども含まれ、「パフォーマンス」は、作業なら結果、工業製品なら性能、食べ物なら味、ファッションなら材質・デザイン性、人間関係なら他人から得られるものなど、様々なことに使われる。

知恵蔵mini(朝日新聞出版)

コストとは金銭だけに限らないし、パフォーマンスは量だけでなく質も大事だし得られた利益と捉えられるものを包括的に指す。

そしてこのコスパという概念は僕らが何かを"選択"するときに顔を出す。

少ない出資で美味しいものを食べられれば嬉しいし、100円上乗せするだけでより良いサービスを受けられるのであれば安いものだと考える。

これは万人が持ち合わせているもので、ショッピングをしているときも食事をしているときも遊園地にいるときも常に頭に浮かぶ。僕らは常にコスパを考えている。支配されているといってもいい。

当然「コスパが高い」のは良いことと考えられ、僕らはコスパの高い方を選択する。

しかしそれは常に言えることだろうか。いや違う。

1度きりであるかどうか

何かしらの選択をするときコスパが高い方を選ぶのは道理だが、これには例外がある。

一度きりの選択である場合だ。

焼肉の食べ放題を例に挙げよう。

あなたは数人の友達と焼き肉屋に来た。

この店には2つの食べ放題コースがあり、
Aコースは3000円で一般的なメニュー(カルビ、ホルモン、牛タン、セセリなど)の食べ放題だ。
Bコースは4000円で、Aコースのメニューとほとんど同じだが、Aコースにはない特上カルビが追加されている。

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この特上カルビがあるかないかがA、Bコースの唯一のメニューの違いだ。

今回は多数決でBコースを選ぶことになった。

Aコースにはない特上カルビを注文することができる。

しかしあなたの一番好きな肉は牛タンだとする。

さてあなたは何の肉を(優先的に)食べるべきだろうか。

カルビが嫌いで嫌いで親の仇より憎いといった特殊な事情がない限り特上カルビを選ぶ人が多いだろうと思う。僕もそうする。

これはコスパを考えた結果だ。特上とついているからには美味しいのだろうし、1000円多く払って得た特上カルビを注文する権利を使わないのはもったいない。

その結果一番好きな肉である牛タンは後回しになるが、それは大した問題ではない。焼肉屋にはまた来ればいいからだ。

そう、また来ればいいのだ。また次に来た時、今度はAコースを選びお安く牛タンをたらふく食べればいい。


ではこの焼肉食べ放題が一度きりであったとしたらどうか。

あなたが焼肉を食べられるのは人生でこの一回きりだとする。後にも先にもこれっきりというとなぜ牛タンが美味しいことを知っているんだとなってしまうので、これまでは焼肉を食べられていたがこれが人生最後の焼肉だとする。

あなたは今回の焼肉食べ放題を終えた時点で次に焼肉屋の敷居を跨ぐと死ぬ病にかかる。
あるいは明日には地球が滅亡することが分かっていて最後の晩餐に焼肉を選んだ。
コースはBコースに決まった。

地球滅亡前日と設定してしまうとお金の価値が無に帰してしまうし焼肉屋がのれんを上げているとは思えないがそういったことは考えないでいただきたい。何にせよあなたにとってこれが最後の焼肉だとすると、何の肉を食べるだろうか。

やはりコスパの良い特上カルビを選んで食べるだろうか。ドンペリで溺死したいタイプか。

多くの人が今度は牛タンを選ぶと思う。僕もそうする。

コスパとか知ったこっちゃない。一度きりなら自分の好きなものを選ぶ。


おわかりいただけるだろうか。

一度きりであるか否かによって取るべき行動が変わったのだ。同じ焼肉屋の同じコースであるのにだ。

一度きりの場合コスパを考える意味がなくなるのだ。

考えやすいように焼肉を例に考えたが、これはどこまで拡大しても変わらない。一度きりであるか否かで選択の基準は大きく変わり、一度きりの選択にはコスパの良し悪しが介入する隙はない。

受験は一度きり()

さて、拡大してみよう。一度きりのものといえば何があるだろう。

大学受験とかどうだろう。たまに大学に2回入学したりするおかしな人がいるが、普通の人は大学は1か所しかいかないし受験は一度きりだ。

ある人の受験勉強に費やす努力量(勝手に数値化した)と合格できる大学が以下の通りだったとすると、どうするべきだろうか。

努力量 合格できる大学 偏差値
90 A大学 40
100 B大学 60
800 C大学 65

一番上を選ぶ人はそういないと思う。あと10頑張るだけでさらにいい大学に行けるのだからそれぐらいは頑張るだろう。

努力量800はこの人にとってのこれ以上ない精一杯の努力だとする。

精一杯やるべきだろう。頑張れば成果が返ってくるのだから、妥協する理由はない。

このように受験で考えても、コスパが悪かろうと最大限の努力で実現しうる最高の成果を目指すのがあるべき姿だと考えられる。

それは受験が一度きりだからだ。

一度きりの人生

さらに拡大する。

人生そのものはどうだろう。
本当に残念なことだが人生は一度きりだ。
あるいは一度きりではあっても先年単位で寿命があって生き方をやり直せるほど長ければどんなによかったか。


人生の選択すなわち生き方についてコスパを考えるのは意味がない。

「あまりあくせく努力して勉強して働いて金や立場を得ようとは思わないな。ちょこっと努力してそれなりの生活できればいいじゃん。」と考える人がいるが、これはコスパの良し悪しを一度きりの人生にまであてはめている。

努力をそこそこに抑えて温存したエネルギーをどうしようというのか。来世で使うのか。

そこそこに抑えているのではなく努力ができないのであれば、それはその人にとって最大限可能な限りの努力をしているわけだからまぁいい。

だが「自分のやりたいことなりたいものはあるけど労力が大きすぎて目指すのは疲れる。そこそこで妥協する。」というのはいただけない。

その目標を諦めればなるほどストレスフリーにそこそこの満足を得られるだろう。しかし疲れないようエネルギーを温存してどうするのか。活力に満ち満ちた状態で人生を閉じてどうするのか。人生は疲れていいのだ。全てやり切って疲れ切って終えねばどうする。

コスパを考えることが意味をなすのは一度きりでない場合だけだ。抑えたコストを次に回すことが出来る場合だけだ。

自分自身がどういう人生を歩むかという選択にはコスパを考慮すべきでない。

分母であるコストは度外視して分子であるパフォーマンスを最大にすることだけ考えるべきだ。

妥協した生き方ができるほど人間の生は長くない。



価値観は人それぞれなので僕がとやかく言うことではないが、一度きりの選択では基準を見直した方がいいということに気付かず凝り固まった価値観を抱え続けている人は、一度考え直した方がいいと思う。